今考えていること
私は、12年ほど前に国立市の市議会議員になろうかと考え、駅頭でそのためのチラシを撒いたことがあった。
撒いた直後のその午後に、母親が急逝した。
母親は、私が政治に出ることをずっと心配していた。
幼い時から父親がテレビのニュースに向かってさまざまに文句を言ったりコメントしたりするのを見て私は育った。
だから私は、私にとって政治がどんなに重要で、自分にも非常に関わりのあるものだということを自覚しながら障害者運動をしていた。
そうしたなか、優生保護法の撤廃を目指してエジプトのカイロの人口と開発世界会議に参加した時、時の外務大臣河野洋平氏と3、4分会話した。
その時に私が感じたことが我ながら驚く。
この人に外務大臣ができるなら、私にもできるに違いないという感覚だった。
帰って来て、周りの人に言って歩くと、母だけが顔色を変えて「そんなことを言うものではない」と私を諌めた。
母にとっては、あまりにも痛い思いをさせ続けた私が元気で世界を歩くことだけで充分で、それだけでも心配でたまらなかったのだ。
にもかかわらず、次に政治の場でいろいろな人に取り囲まれ、辛い思いや苦しい思いをするに違いないことは想像もしたくなかったのだろう。
あまりに真剣にやめてくれと言うので、内緒で国立市議会議員になろうと思ったわけだ。
その第1回目のビラ撒きの日に母は亡くなった。
今でも考えると涙が溢れてくる。
命がけで私が苦労するのを見たくないと抗議したに違いない。
昭和3年生まれの貧しく育った母にとっては、政治はお上のすることであり、市民一人ひとりが自分の手でつくっていくものでは全くなかった。
万が一にも私が政治の場に出ることになったらあまりにも辛すぎて死んだ方がましだということを実現してしまった。
母に死なれて、初めて私のやりたいことをどんな時も最終的には応援してくれた彼女がこんなにも嫌だったのかと思わざるを得なかった。
私の命を少しでも守るためだけに母はその人生を尽くしたといっても過言ではない。
その母の思いを受け止めて、私は自分が政治の場に立つことは今生ではやめようと決意した。
この抑圧的・差別的社会のなかでは、とにかく自分の命を守り生きながらえることこそが私の仕事であり使命であるのだろうと、母の亡骸を抱きながら号泣した。
その2年後に私は思いがけず母となった。
(その年に優生保護法も改定され、優生保護法という名の法律はなくなった。)
命をつないでいくという種としての仕事が現実化した。
娘は私と同じ障害を持って生まれたのである。
今私は娘にとってよい社会を、世界を残すことこそが私の仕事であると思っている。
ただし、 それは娘とたくさんの時間、空間を共有したうえでである。
だから、政治の場には私の代弁者となってくれる人たちをいっぱい送り出したい。
政治家は私たちの代弁者なのだ。
私たちがしたいと思うこと、つくろうと思うこと、実現したいと思うことを、依存するのではなく共につくっていく人として彼らはいる。
政治を自分に引き寄せて考えよう。
今もし苦しい気持ちでいるとしたら、その苦しみの少なくとも7、8割は混乱した政治から来ているのだ。
私たちは自分の人生を自分たちでつくっていけるということを決して諦めなくていい。
そのために政治があり、政治はあなたが関心を向けてくれるのを切望しているのだ。
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